時計台のブログ

こんにちは?

選択の自由/重大な決断について

選択の自由

最近すごい勢いで金が減っているんです。でも浪費しているわけではありません。

あくまで最低限のものを買っているに過ぎず、どうせ先々必要になるものをまとめて買うので期間あたりの消費量が異様に多く見えるというだけの話です。

 

ある程度長い期間で平均を取れば大した金額ではないことがわかるはずで、そういうのを頭ではわかってるんですけど、なんだか罪悪感がありますよね。

 

私は結構まとめ買いというものをするタイプで、いずれ買うことが確定しているものを一挙に買う傾向にあります。その方が安く済む場合が多いし、そもそも何かを買うという行為は私のような貧乏性の人間にとって疲労を伴うので。

 

ちなみに私の「買うことが確定している」のラインは割と低く、気になっている音楽や娯楽作品、程度のレベルでその範囲に入ります。

そんなんで確定してるとか言うなと怒られそうですが、実際私は一度気になった作品をかなりの確率で入手しようとしますし、遅いか早いかの違いでしかないと思えばそう無理な話でもないでしょう。

 

当然、途中で興味を失うとか、単純に忘却するとかの理由で実際には買わないということもありえますが、いっとき購入という決断をためらっただけで私の人生から永久にその作品が失われるというのは、何かかなり重大な損失のような気がして、より恐ろしい気がしてしまいます。

 

だから私のまとめ買いには、気力のある時に一括で買い物を済ませてしまうことで、本来は買うはずであったものを取りこぼさないようにするという意味合いもあるように思います。

 

で、買う対象が先述のような「決まったもの」、すでに品名も入手経路も確定しているようなものであれば、私が選ぶのは買うか、買わないかというだけなんですけど、問題はそうでない場合ですよね。

 

私が最近した買い物の中にはノートパソコンとキーボードが含まれており、ここでいうキーボードというのはテキスト入力機器ではなく、楽器の方のキーボードです(ややこしい)。

 

両方とも現在の私にとってほぼ必須のものであったわけですが、これらを買う時には無数の選択肢があります。

 

パソコンの方はサイズや付属品の有無、性能なんか詳しく調べ始めたらそれだけで大変ですし、そもそも私の要求するスペック自体が曖昧なのでなんとも結論を出し難い。

 

キーボードも、本体だけで音を出せて、かつMIDIデータの入力機能があるものを選びたかったのですが、案外この条件で絞り込んで検索するのは難しく、余計な手間がかかってしまいました。鍵盤数とか音色とかも色々ありますし、とにかく選べるものが多すぎるというのも困ったものです。

 

重大な決断について

私は金額が大きい買い物にも、たいがいは普段の買い物と同程度の時間しか掛けません(元から割と考えてしまう方なので即断即決ではないですが)。むしろ掛けられないと言った方が正しい。

 

もちろん高額なものには多数のオプションがあることが多く、その中から選ぶことに疲れたあげく適当になるという理由もあります。これがさっきまで話してたことですね。でも、安くて色んな選択肢がある場合だってあるわけで、そういう買い物と比較して、私が高額商品の買い物に特別時間をかけるかというと違う気がします。

 

これが買い物なら、どんなに高くたって所詮は金の問題なので、まあ取り返しはつくと希望的に考えることはできるんですけど、私は人生の岐路みたいな時期にもだいたい似たような態度をとってきました。

 

これは私が何事にも動じない人間だとか言いたいのではなくて(むしろ正反対の人格です)、決断の重大さというものを正しく評価する機能があまり発達していないことの反映だと思っています。

 

要するに大事も小事も同じように心配していてメリハリがないんですよね。

 

これが、どちらにも全然興味がないというのであれば精神は安定していますし、ある意味達観していて私なんかは格好良いと思ってしまうんですが、残念ながらそういうわけではない。むしろそれなら、普遍性に重きを置いて各論を軽視する私の性向とも一貫していて分かりやすいのに。

 

しかし実際には、この広大な宇宙の、冗談みたいに狭くて一瞬の領域に局在している、私というちっぽけな自己について考えたり書いたりすることに延々と時間を費やしています。例えばこの日記のように。あるいは苦痛や不安には、客観性など放棄させるだけの差し迫った威力があるということでしょうか。

 

それにしても、私が私であるというだけで、所詮は種族人間の一個体にすぎない私の感情や運命をここまで重視しなきゃならないのは不合理ですらあります。

 

どうして苦しいのは苦しく、痛いのは痛いと感じるのでしょうか? 原理的には他の人間が苦痛を覚えているのと同じくらいの感覚で、自分を見ることができても良いはずなのに、私たちにはそれができません。まあ離人症はそれに近いのかもしれませんけど、それだって限界を超えたストレスを感じてしまったが故の機制でしょうからね。

 

話がめちゃくちゃ逸れてしまいましたが、元々「事の重大さ」というものに対する私の感覚の鈍さについて話していたのでした。特に考えても原因は分かりませんけど、そのうちまた書くでしょう。あと、注文したキーボードのことについてもいずれ。